20年で荒涼たる土地に都市が生まれ人口は30倍、うち中国人は83%。どこが侵略だよ~ハライター原の国守衆兵庫チャンネル・名著紹介「実録満鉄調査部 下」
清国が東北三省も含めて強い国であれば、李氏朝鮮が強ければ、南進ソ連の脅威は大きな問題ではなかったかもしれません。実際は、清国の政権末期で弱体化し、特に東北三省は力が及ばず、安全保障上の危険は明白でした。李氏朝鮮に国防がないことは言うまでもありません。大陸進出とは言っても、欧米列強とは違い、搾取や侵略とはまったく違います。
多大な国家予算を投入して不毛の地を発展させました。エチオピア侵略戦争費用を植民地インド(イギリス植民地時代 1858年から1947年まで)に払わせたような国とはまったく違うのです。
新京(長春)・大連間の特急「あじあ号」が、日本国内の特急「つばめ号」の時速66~69キロを大幅に上回る110キロであることが端的に物語っています。
今回は「実録満鉄調査部 下」です。
満州は大発展しますが、ソ連、イギリス、張学良による工作、プロパガンダによって排日は激化し、満鉄も凋落します。
イギリスのお誘い
その南京事件(1927年3月24日北伐の途上、蔣介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)[1]が南京を占領した際に起こした、日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件)、漢口事件(1927年4月3日国民革命軍の武漢攻略の際日本租界で略奪)を受けてイギリスが共同出兵を申し込んできた。「蒋介石に最後通牒を」と迫ったが、幣原は複数心臓論で一蹴。当時の中国には心臓がいくつもあってひとつ仕留めればいいというものではないということ。しかし、この幣原外交はロシア人ボロジン率いる国民政府左派に利用された。
→イギリスに乗っていてもひと工作あったとは思われます。
イギリスの工作、排日へ
昭和2年(1927年)4月6日張作霖のソ連大使館襲撃事件は森恪(もりかく、本来読みは「つとむ」。大正は満鉄社員で、昭和2年当時は田中義一内閣の外務政務次官)の陰謀というプロパガンダがイギリス情報部によって流され、中国民衆の排英が排日にすりかわる。
「満州は国防の第一線」
「満州の主権は中国にあるが、日本も参与する権利がある。満州の治安維持には日本があたる。国防の第一線だから日本が守る」という東方会議の方向性と山東出兵(膠州湾こうしゅうわんと済南を結ぶ鉄道=満鉄関係ではない=が国民革命軍によって遮断され、在留邦人に危機が及ぶと予想された)。これがまた排日を激しくさせる。
張作霖張学良の父子は満鉄包囲戦を建設
欧米植民地ならこうはならない五族協和の証、就学させ人口は30倍
満鉄は付属地内に幼稚園から医科大学まで建て中国人も就学させた。昭和4年関東州内、鉄道付属地内ともに中国全省の小学校就学率を上回り、中学校では関東州内ももちろん高く、付属地内ではるかに高かった。
清朝は漢民族の移住を禁止し、帝政ロシアがシベリア鉄道を敷設しはじめたとき北満人口は100万人。明治41年(1908年)満鉄が経営をはじめてから昭和4年(1929年)まで、人口は30倍の3400万人にたっした。内訳は日本人と朝鮮人合わせて2%、満州蒙古人15%、中国人は83%。この背景は昭和2年末までに1億6000万円の社会資本投資、耕地面積500万ヘクタール拡大した実績。荒涼たる土地に都市が生まれ3000万人があつまったのは「家があり、土地があり、職業があったからではないか」と満州に棲む日本人は考える。
筆者註→わたしもそう考えます。
第三次山東出兵から米国が冷たい視線
一次山東出兵は好意的に解釈されたが、第三次山東出兵がアメリカには過剰介入に映った。アメリカ通の王正廷外交部長が山東出兵を国際連盟に提訴。国連には嫌日家ライヒマンがいた。
昭和3年(1928年)8月米政府主催の国際関係討議会では、日本の満蒙政策が「搾取」というレッテル張りされたが、その後に爆弾発言。
アフリカのリベリア王国のゴム栽培でアメリカの投資会社ファイア・ストーンが栽培権の割譲に成功したが、その裏で米国務省がリベリア王国に恫喝をかけ、ファイア・ストーンに多大な援助。次期大統領候補フーバー(鉱山技術者、リオティント役員、飢饉対策?)も深く噛んでいるという爆弾だった。
筆者註→フーバーは保守系チャンネル広告でもおなじみの方が熱弁をふるっていますが、所属はフーバー研究所ですね。この方のものまねがマイブームです。
その国際関係討議会で物言える日本代表
中国側代表に一歩も引かぬ日本代表・郷敏「日本の存在にとって緊切な関係にある利権に対して無法な行動に出るので、自衛的な措置をとっているのにすぎない」
筆者註→真の独立国ははっきりものを言えるし、国連も脱退できる
大豆争奪戦 満州への投資は全体の6割を占める
満鉄にはもうひとつのライバル。ソ連との満州大豆争奪戦。昭和4年当時満州大豆は400万トン世界全生産量の60%。今日の大豆王国アメリカになれたのは、満鉄のニューヨーク事務所を通じて満州大豆の種子と栽培技術を輸入したから、
張学良の満鉄包囲網は北方で争うソ連との間で迎撃される形、満鉄の危機は日本の危機、なぜなら
満州事変前の対満投資額は17億円で、対外投資全体の60%を占めた。
満州でできる大豆300万トンをめぐる日ソの争奪戦。第一次大戦後張父子が満鉄包囲網を敷いたのは欧州大戦以降、張父子が英米政策に便乗した満鉄包囲網。昭和5年(1930年)の世界恐慌とあいまって在満日本人の危機感に相乗効果。
筆者註→世界恐慌はどこ発ですか? 「神の見えざる手」が恐慌を起こすと本気で思っていますか?
包囲網完成後は金銀為替差を使って満鉄の力を削ぐ
満鉄包囲網が完成。張学良は銀建てで運賃を半額にし、金建ての満鉄に金銀為替差で対抗。北満の大豆と東満の貨物を満鉄のレールから吸収。
満鉄3000人解雇
対華21ヶ条、実際は14条と7条、この不満ガスに張学良が点火。
昭和5、6年満鉄は3000人解雇。満鉄包囲網による。
一般民衆は4種類の匪族に苦しめられている
昭和4年6月、陸軍が興安嶺縦断の際宿営、給水など調査の中村大尉ら2人の軍人は第三兵団に誰何され、旅券を持っていたが、拳銃と少量のヘロインが見つかり、射殺された中村大尉事件など満州で排日事件が相次ぐ。「中村大尉事件」の後、関東軍参謀の花谷正少佐の満州視察報告が当時の様子を端的に教えてくれる。要点は4点。
①張学良が満鉄線を包囲
②満州の満人は4種類。軍匪、学匪、政匪、商匪。その他は庶民で3000万人中8割は庶民。庶民は4種類の匪に苦しめられている。
③寒帯地だが、地下資源も木材も豊富、日本の2倍の広大な土地で農作物も豊富。
④日本人としては、四匪を排除し庶民と苦楽を共にして楽土を建設せよ
筆者註→匪賊とは近代中国の非正規武装集団
観光立国とはなんと貧相な国家像か
満鉄理事の十河信二は三大国策として頭脳立国、山岳立国、海洋立国を掲げた。
筆者註→観光立国のみを掲げることが、いかに恥ずかしく志が低いかがよくわかる。
<参考>
第三次山東出兵をアメリカ通、王正廷がアメリカのバックアップで国際連盟に提訴。国際連盟にはライヒマン(ルドヴィク・ライヒマン、ユダヤ系ポーランド人)保健部長がなにかにつけて中国の申し出を取り上げる嫌日家。この経験は生き、満州事変を国連に持ち込むことに成功。日中二国間交渉を邪魔して、国連に。リットン調査団は出発前に日本非難案を作成済。
→日本が第二次大戦に引きずり込んだ立役者は、国際連盟保健部長のライヒマンではないか。ことさらに問題を厄介にするのはロックフェラー的手法のようにも見える。