陽謀日記

陽謀を明かします

多くの先人に心から感謝します~ハライター原の名著紹介「ぼくの防空ごう」(野坂昭如原作)

終戦記念日に寄せての個人的な思いを少し話させていただいたうえで、特別編として名著紹介させていただきます。

子供のころ、母方の本家に年の近いいとこを訪ねてよく遊びに行きました。

そこに一緒に住んでいた母の叔父さん(私から見れば大叔父さん)はちょっと赤ら顔でつるつる頭、声も大きく、いつも笑顔を絶やしませんでした。

大東亜戦争で、確か右手だったと思いますが指を二本なくしていました。それを隠すこともありませんが、戦争について説教っぽく話すこともありませんでした。

すでに亡くなって久しい「うさぶろう」さん。

英霊とともに傷痍兵にも感謝したいと思えるようになった今、終戦記念日が近づくとちょっと赤くて丸い顔、大きながらがら声、傷ついた手のうさぶろうさんを思い出します。そして無性に戦争の話を聞いてみたかったと思います。

亡くなった父母も戦前生まれでしたが、戦中戦後の苦労話はあまりしませんでした。母が何度かしみじみ言っていた脱脂粉乳の不味さのほかは。

毎回吐きそうになったと言っていましたが、いわゆる今のスキムミルクとは似て非なるもの。そんなものがユニセフの援助かなにかで育ち盛りの子供に学校給食として与えられていたんですね。

父は亡くなるまでユニセフのマンスリーサポートにまで寄付していました。

周囲の善意に溢れる人たちが戦後の苦労話はあまり話さなかったのも、戦後教育が連合軍善、日本悪のキリスト教善悪二元論に覆われ、戦中、戦後の苦労を積極的に話せない風潮があったからでしょう。

こちらからいろいろ聞いていれば、答えてくれただろうにと、今は思えます。GHQ教育の狙いは悲惨な戦争の話を語り継がせないように、風化させることだったんでしょうね。

戦時中多く掘られたのは家の床下壕だったそうです

前置きが長くなりましたが、今回は絵本を紹介します。

野坂昭如と言えば、「火垂るの墓」でしょうが、今日は「防空壕」を検索して借りてきた本を紹介します。

野坂昭如戦争童話集5「ぼくの防空ごう」

原作野坂昭如 文水谷明子 絵真崎守 1993年汐文社発行

戦死した父が戦地に出かける前に自宅の軒下に掘っていった防空壕。たたみの下の床板を長方形に切り取り、大きなスコップで掘ります。まっすぐ下に掘ります。お父さんが少し屈むくらいの深さ、少年は立って歩けるほどの深さで、今度は直角に横に掘っていきます。家の下を通って庭に出られるようにまた上に掘っていきます。防空壕は作り方も形もいろいろあったが、もっとも多くつくられたのは、この床下ごうだったそうです。

短い絵本ですから、以後は簡単に。

少年は防空壕の中で戦死したはずのお父さんと一緒に戦い、たくさん会話しました。終戦。少年の町に爆弾の被害はなく、お父さんが5日かけてつくった床下ごうも作業員二人で、半日で埋められました。少年にとって埋められた床下ごうは、戦死したことを実感し、お父さんのお墓に思えます。

最後にお伝えしたいことです。

 

通関の下級武士は外国人に礼儀正しく親切だが袖の下はきっぱり断る。古くから人類を苦しめ続けたペストをあっという間に発見し解決の道筋をつけた北里柴三郎。国力差10倍のロシアを打ち破った日露戦争先の大戦で戦死した兵士のほとんどが読み書きできるうえに辞世の句まで詠んでいた。身分が高くない一般の人が国や家族のために命を捧げられるノブレスオブリュージュを持っていた。清廉で優秀で高貴な道徳観を持つ日本民族を、世界は端倪すべからざるものと見ていました。

 

優秀さを除けば自分たちとあまりにも対照的な日本民族は、自分たちの行く手を必ず阻むと思っていたであろう、被害者づらをして今やあらゆる批判を免れる立場にいる特定の人たちは、戦勝国の名を借りて、敗戦利得者という裏切り者を使い、あらゆる批判や中傷にさらされるように私たちを虐げてきましたが、それがいよいよ最終段階に入っています。

あなたの身近な人々は善人ではありませんでしたか。ふるさとに帰っているなら、「日本は悪だったのか」と今のうちに話を聞いて下さい。それが目覚めのきっかけになります。日本を救う唯一の道です。