陽謀日記

陽謀を明かします

「日本人民憲法ならそんなにありがたがっただろうか?」~ハライター原の名著紹介「占領1945~1952」

ハワード・B・ショーンバーガー著 1994年時事通信社発行 宮﨑章訳

ウクライナ戦争を機に憲法9条信者はその立場が危うくなっていると思いますが、何とかその妄想を維持しようと必死ですね。

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その日本国憲法が、うまく和訳されたことによって、その欺瞞性に気づきにくかったのではないかと思われる本がありましたので、紹介することにしました。

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ジャパンハンドラーのはしりを章立てて取り上げた本です

戦勝5か国が拒否権を持つ常任理事国で、第二次大戦の枢軸国は敵国条項までつけられている国連に加盟しなければいけない臥薪嘗胆を、「連合国」と刻んで胸に秘めておけば、「国連中心主義」などと言う愚かな政治家は生まれなかったでしょう。しかし、「国際連合・国連」と表面上うまく翻訳してしまったことによって悔しさを胸に刻めなかったと考えます。

連合国と刻めば、明治政府が黒船来航後の不平等条約を富国強兵ではね返したように、敵国条項を必死に外す努力も惜しまなかったと思います。

 

同じように国民をとあちらの希望通りに「人民」と和訳し、GHQ共産憲法の悔しさを刻んでおけば、自主憲法の機運も高まったのではないかと思います。

ハワード・B・ショーンバーガー著の翻訳本「占領1945~1952」では、GHQの日本占領時にかかわったマッカーサー、ジョン・フォスター・ダレス、ジョセフ・ドッジら8人を章立てて扱っています。

第3章で取り上げられたトーマス・アーサー・ビッソン(以下T・A・ビッソン、ビッソンと言います)は、その中ではマイナーな存在かもしれません。

彼は1946、47年にGS(GHQの一組織ですが、占領政策の中心を担いました。ガバメントセクション、民生局と言います)で勤務しました。中国共産党びいきの左翼系東アジア研究者で、GS勤務前には太平洋問題調査会などで働いていました。「天皇を裁判にかけて日本人民に明らかに欠けている敗北の認識に至らせる」と強硬な主張をしていたそうで、占領政策を生ぬるく感じていたわけです。憲法問題にも深くかかわりました。

日本国憲法にまつわるエピソードが語られています。

1947年2月幣原内閣にGSからの憲法草案が提示されたあとのことです。

「GSの翻訳担当官が日本語訳の言い回しを丹念に検討したところ、アメリカ軍の意図からかなり逸脱していることが判明したのである。ビッソンは日本政府の交渉者の鉄面皮に愕然とした

何に愕然としたかというと、前文と1条に数か所出てくる「sovereignty(サヴァランティティ) of the people’s will」(人民の意思の主権)のpeopleのことです。

 

これを「日本人は『国民』と翻訳した」と非難するんですね。

 

上司であるコートニー・ホイットニー将軍に宛てた覚書の中で、ビッソンと二人のGS局員は、「この文書におけるpeopleの適切な訳は『人民』である。なぜなら国民はむしろnationであり、国民という表現には天皇の意志が人民の意志の中に溶け込んでいるという意味合いがある。ビッソンにとって、民主主義という概念は、人民が天皇の意志とは別個の意志をもっていることを必要としていた」

※君民一体が日本の国体であることを的確にとらえていたビッソンではありますが、もし、「日本人民憲法」を戴いたら日本人民は戦後どうしたか、と思いを巡らせます。

日本側の翻訳官の意図はわかりませんが、国民と訳されてしまったことが、GHQの押し付け憲法でありながら、国民が「こんな憲法何とかしたい」という気持ちを持てなかったひとつの理由ではないか。

国民が「人民」「人民」と置き換わっていたら、日本国憲法でなく日本人民憲法であったら、中華人民共和国人民解放軍朝鮮民主主義人民共和国の人民をきっと想起させたことでしょう。

そして、ビッソンがこだわった、「人民が天皇の意志とは別個の意志をもっていること」ではいけないと痛感したと思うのです。

 

<参考>

以前取り上げた日高義樹さんの「なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」の冒頭、ハドソン研究所でこの平和憲法論議が出てきます。

ワシントン代表のトーマス・デュースターバーグ博士が「平和憲法はどういう規定か?」と日高さんに尋ねます。日高さんは「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と憲法九条を読み上げました。すると、博士は「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」

 

日本国憲法には、日本が国家もどきであること、日本国民は日本人民であることが本質だったのに、うまくごまかされ、またごまかされたふりをして、いよいよごかましきれなくなって、ごまかされきれなくなって、未曽有の国難にあるのだと考えられます。