「憲法を改正したいと思う政治家はとんまだ」(吉田茂)~ハライター原の名著紹介<「日米関係」とは何だったのか>前半
原題アルタード・ステイツ(変えられた国――占領期以降のアメリカと日本)草思社2004年発行 マイケル・シャラー著 市川洋一訳
チャンネル桜の番組、伊藤貫さんの「真剣な雑談」で話題にされた本の日本語翻訳本です。
日本語版のタイトルが平板過ぎて少し残念です。「変えられた国」の方がよかったでしょう。ともかく、アメリカの資料のみで書かれた日米関係の実際であり、極めて中身は濃いものになっています。
読後の感想のいくつかをまとめると、次の通りです。
赤色中国との貿易拡大に前のめりのほぼ例外ない歴代首相たち(※台湾との平和条約にこだわった佐藤でも北京との友好回復を期待して仲介者を派遣)
日本とソ連の結びつきを一貫して拒んだ米国
CIAからの資金で選挙を勝ってきた自民党
「核を持ち込ませず」ではない数々の証言
外交は密約ばかり
厚い本でもありますので、前後半に分けてお伝えします。
<引用>
第九条は、後にアメリカ政府は後悔することになるのだが…
一九五〇年四月に吉田はアメリカの外交官クロイス・ヒューストンに、日本の一般国民は「中立政策」を支持、自分はアメリカの保護の価値を十分認識。「たとえ日本がアメリカの植民地になるとしても、結局は日本の方が強くなるだろう」、占領を終わらせるに「アメリカが必要と思うどのような取決め」も受け入れる。
<吉田政権下MSK最終交渉のため三人の側近派遣池田、宮沢ら>
アリソン大使と岡崎外相は、日本国民を激怒させた、アメリカの軍人が日本国内で犯した犯罪について訴追を免除する事実上の治外法権を解決した。NATO諸国に駐留するアメリカ軍と同様、在日アメリカ軍も日本の裁判管轄権の下に置くことを規定した改定議定書に署名した。だがアリソンは「実際は日本が…裁判権を行使するのはきわめてまれにしかない」という内容の保証を得ていた。※注釈4章の11より
吉田は「憲法が軍備を禁じているのは、天与の幸運」だと思っていた。「アメリカ側が不満に思っても、憲法が遮蔽物になってくれる。憲法を改正したいと思う政治家はとんまだ」。
池田は、日本国民のほとんどは再軍備の援助より赤色中国との貿易制限の緩和を切望していると、述べた。
(アメリカの軍備増強に消極的な池田…)話し合いのあいだ池田は、日本の憲法が純粋の防衛力以外の兵力の創設を禁じていることを説明した。
(一九五三年十一月に国賓で東京訪問した副大統領)ニクソンは、日本に対するソ連圏の脅威について警告し、日本政府に再軍備を急ぐことを懇請した、吉田と天皇あてのアイゼンハワーの手紙を持参していた。ニクソンは日米協会で次のように述べた。
私は、アメリカは一九四六年(軍備縮小)に間違いを犯したことを、この場で認めるものである。
占領時の改革の中心である憲法の規定を「間違い」だとするこの言葉は、吉田―彼は憲法第九条の陰に隠れていた―を当惑させ、保守党のライバルたちを元気づかせた。
首相になる前、岸はアメリカ大使館の高官に運動資金の調達計画について説明した。大企業に「賛助」を要請し、金は中央の金庫に収める。選挙前に特別賛助金を徴収する。これによって党の指導者は国会議員に対するより大きな統制力を持つことができ、個々の立候補者は自分で資金を集める必要がなくなる。
この資金調達案は岸の選挙制度改革案の一部をなしていた。彼は小選挙区制を導入する選挙法の改正を促進すると、アメリカ側に通告した。運動資金と選挙制度の改正によって新生自民党の国会支配が保証されるだろう、と彼は予言した。
※小沢ではなく、岸なんですね。小選挙区制を志向した始まりは
<岸へのテコ入れ>
アイゼンハワーはCIAの秘密行動開始を認めた。…CIAによる資金は1958年5月の衆議院選運動を始めさまざまな方面に使われた。反社会党活動にも一部の社会党候補者にも資金が提供された。あるCIAの関係者が述べるように、社会党内に役に立つ者を確保することはわれわれのなしうるもっとも重要なこと。
<沖縄に核兵器>
沖縄基地はベトナムの航空戦にとってとくに重要。…1960年の安全保障条約による制約を受けることなく、アメリカ軍は化学兵器、核兵器を貯蔵し、…
ニクソンはしばしば東京を訪れた。…再軍備に対する日本の憲法上の制約を嘆き、日本政府に大国らしく振舞うよう求めたが、そこには核兵器の所持も含まれていた。
※注釈12章の4より
ニクソンの伝記作者スティーヴン・アンブローズによれば、伝記ではこの記述に該当する箇所は、最初の原稿の段階では「ニクソンは日本に『核なし』の兵力拡充を促した」となっていたが、原稿を読んだアイゼンハワーから、日本は自分で核能力を持ちたいと思っているといわれたニクソンが、この「核なし」という文言を削ることにした、というのである。
ニクソンは沖縄を日本に返還するにあたっては、基地の維持に好都合な条件のもとで返還したいと言明する一方、日本側が受け入れられるような「主張をしなければ」ならないと考えていた。キッシンジャーは、沖縄については同意見だったが、日本をアメリカの安全保障にとって欠くべからざる存在とは思っていなかった。日本の外交官は「けちなソニーのセールスマン」
主としてニクソンとキッシンジャーが経済問題に対して無関心であったため、アメリカ政府は通貨問題、貿易問題を無視した。…両人とも国力を経済的な数字よりも軍事的な数字によって測った。この方法によれば、日本は大国の地位には値しない。彼らは貿易問題や通貨問題を二次的な地位に格下げしたり、まったく無視したりすることによって、新たに持ち上げってきた問題の解決をますます困難にしたのである。
佐藤首相は沖縄が核兵器抜きで返還されるという保証なしでニクソンと会うことをためらった。…国家安全保障会議事務局のモートン・ホールパリンは非公式に外交官に、首相がワシントンに来ても失望することはないと露骨にほのめかした。
※注釈12章12より
日本の外交官から日本への連絡はアメリカの情報機関によって傍受。切り札を捨てて国益を傷つけたとニクソン、キッシンジャーらはホールパリンらを非難。核兵器は妥協するつもりだったが、ニクソンは機密漏洩を問題視し、ジャーナリストや閣僚にFBIの盗聴器をしかけた。
キッシンジャーによれば、ニクソンは日本が繊維問題をニクソンの満足のいくように解決すれば、核問題を日本の満足のいくように解決することができるというのである。…沖縄問題に関して話し合いはすらすらと運び、「ヨシダ」(佐藤の友人・若泉敬教授)とキッシンジャーとのあいだで意見の一致。…ニクソンは、緊急時の核兵器の持ち込みを認める秘密協定に佐藤が署名するよう主張した。
若泉は佐藤が署名したことを後に認めている。
1967年に日本の非核三原則を定めた佐藤…首脳会談の直後佐藤は核拡散防止条約に署名し、日本は核兵器の開発をしないことを約束した。
※注釈12章25より
日本は1970年初めに核拡散防止条約に調印したが、批准は1976年まで延期された。核増殖炉の開発努力が禁じられるかもしれないという日本政府の懸念を反映している。