アメリカは「いつ何時でも日本を裏切ることができる」~ハライター原の名著紹介<「日米関係」とは何だったのか>後半
原題アルタード・ステイツ(変えられた国――占領期以降のアメリカと日本)
草思社2004年発行 マイケル・シャラー著 市川洋一訳
厚い本でもありますので、前後半に分けてお伝えしています。今回は後半です。
<引用>
ニクソンが日本の繊維業界の案を拒否→占領終了以後の相互関係のもっとも困難な時期の始まりを告げるもの。佐藤は自分あとがまを狙う福田赳夫と田中角栄を外相、通産相に任命、事態を打開しようとしたが、彼らが就任したちょうどそのとき、ニクソンは二度にわたってショックを日本に与えた。中国訪問とドル金交換停止、輸入超過金の賦課、円の切り上げの強要、繊維製品輸入割当の賦課。
国務次官U・アレクシス・ジョンソンのいうように「国務省軽視と日本人侮蔑が一緒になったキッシンジャーの秘密癖は、中国問題をめぐる日米関係を徹底的に破壊した」
ニクソンによれば、アメリカの軍事力がアジアから後退すれば、日本は「ソ連と組むか、再軍備する」だろうが、それはいずれも中国から見れば、好ましくない選択肢である。ニクソンは毛も周もちょっと説明すれば、「日本を抑えたいという中国の希望をもっともよく適えてくれるの」は、アメリカが今後も日本、韓国、東南アジアに軍事力を保持することだということに同意すると信じていた。
国務次官U・アレクシス・ジョンソンによれば、ニクソンとキッシンジャーは中国に魅せられ有頂天になり、アジアで最も重要な同盟国を脇に追いやった。…ジャーナリスト、ヘンリー・ブランドンは次のように述べる。アメリカは「日本が自主的で繁栄した輝かしいアジアの国になる」ことを本当は望んでいないし、日本を「親密なパートナー」と呼んでいるが、「いつ何時でも日本を裏切ることができる」
繊維問題は田中通産相がまとめた。
自民党各派閥の指導者たちは、佐藤の時代は、過去20年日本の位置を規定してきた「サンフランシスコ」体制とともにまもなく終わりを告げると考えていた。日中友好回復の達成を目指す争いの中で自民党の勇士たちは、1951年以来日中友好政策を主張してきた社会党をわきに押しのけた。中国市場の一片でも手に入れようと望んでいる日本企業は、台湾との関係を断ち、周恩来の貿易のための「四条件」を受け入れた。
1971年自民党幹事長保利茂は「パクスアメリカーナ」は終わったと書いた。世界はアメリカを軸にして回ることをやめ、三極あるいは五極の時代に入った。
中国訪問の翌年、ニクソンは北京で出し抜く競争はしないことを求め、核兵器への姿勢の見直しも求めた。アメリカ製ジェット機の購入拡大も求めた。佐藤は核兵器への要求には応じなかった。国会と国民の圧倒的多数が反対していることに加え、軍国主義復活という中国の非難に反論できる。佐藤は逆に、ニクソンに「アメリカは日本に核兵器はいっさい提供しない」、日本には「アメリカの核の傘以外に頼るべきものはない」と公に声明するよう求めた。
共産中国と台湾の双方を相手にするために中国とどのような約束をしたかは、ニクソンもキッシンジャーも明らかにしていないが、台湾が中国の一部と認めたほかニクソンは再選後中国を正式承認し台湾との外交を断ち、日本の台湾支配を阻止するために何らかの手段を取ることをひそかに約束した。
1972年3月ニクソンは再び日本政府を愕然とさせた。沖縄と台湾の間の大陸棚上の無人地域に石油が発見されたとき、今度は中国が領有権を主張。ニクソンの訪中のあと、尖閣諸島について国務省は日本の主張に対する支持を修正し、あいまいな態度をとるようになったのである。佐藤の推測によれば、これは、ニクソンと毛とのあいだで何が話しあわれたかを示すものであった。
田中角栄は1972年7月首相就任。田中は職業外交官を信用せず、外務省を差し置いて経済界の指導者や野党の人たちを派遣。周の内諾を得た後、1972年8月ホノルルでニクソンと協議。日中国交回復と日米安保の維持をニクソンに約束。日本の貿易行動に対するアメリカの批判をなだめるために、全日空がロッキードからL-1011型旅客機21機を4億ドルで購入すると約束。
→※日中国交回復のためのお土産がロッキード事件のきっかけ。1974年11月贈賄が明らかにされ同年12月田中は辞任。1976年2月フランク・チャーチ上院議員によるチャーチ委員会は対外腐敗行為法(アメリカの会社が外国の高官に贈賄することを犯罪とする)の成立へとつながる。
ソビエトの拡張を抑えるため、毛と周はキッシンジャーに日本、パキスタン、イラン、トルコ、西欧を加えた枢軸を組織するように説いた。
ソビエトの指導者は敵対的な連合の結成を恐れ、日本の中国との協力を阻止し、ドルを手に入れるため、ソ連は日本にシベリアの膨大な石油、天然ガス、木材資源の開発に参加するよう申し出たが、不調。
<1980年代>
中曽根は1987年1月GNPの1%枠を超えた。1987年下院は、国務省が日本政府にGNP3%に引き上げるか、それと同額をアメリカに払わせるよう要求した。
これは対日貿易赤字の反映、東芝のココム規制違反も怒りの反映に。
<1980年代>
対米黒字で大量の財務省証券やドル建ての有価証券買い入れ。日本の「貸付」がレーガン政権の巨大な財政赤字政策(レーガノミックス、減税と防衛費の急激な増大)の金繰りを助けた。1981年1月に9億ドルだったアメリカの国債は1989年レーガン退任時2兆7000億ドルに。10年足らずで世界最大の債権国から世界最大の債務国に。日本は同時期世界最大の債権国に。
ベテランジャーナリストのセオドア・H・ホワイトは、連合国勝利40年たって、めざましい通商攻勢でアメリカ産業を解体しようとしている。1930年代と違って今度は全世界が日本の大共栄圏になり、大蔵省が発射台を備え、通産省が貿易攻勢という誘導ミサイルを発射している、と例える。
貿易赤字解消のため、ニクソンらが1971年から始めた戦略、日本からの輸入品の価格を上げ、アメリカの輸出品の価格を下げるために円を切り上げさせる――を遂行した。1985年プラザ合意、1987年ルーブル協定は、円の対ドル価値を引きあげ、ルーブル協定後は127円に下落(プラザ合意の前は254円)。
この対円価値の引き下げは貿易上の大きな効果はなかった。しかし、ドル建て有価証券を所有する投資家は大打撃。→有価証券から割安感のある不動産や法人へ。コロンビア映画、ユニバーサルスタジオ、ロックフェラーセンターは日本よりも所有しているオランダやイギリスと違い、ひときわ目立つものだったため、一般民衆の怒りを買った。